チンギスハン陵墓

   チンギスハン陵墓は内モンゴル自治区の鄂尓多斯市の伊金霍洛旗に位置しております。伊金霍洛旗」とはモンゴル語であり、「主人の陵墓」という意味です。チンギスハンは1219年と1226年の二回にわたり西方を征伐した時に、ここをまたとない風水のいい場所と見定めて「私が亡くなった後ここで私を埋めてよろしい」と言いつけたことがあったそうです。記載によるとモンゴル族はふつう「密葬」(秘密埋葬)の習慣が流行っていてチンギスハンの本当の墓がどこにあるのか今まで謎のようなものです。実際チンギスハンは亡くなった後、その衣冠塚が各地を二転三転して1954年、青海省の湟中県にある塔尓寺からようやく伊金霍洛旗に移転してきました。それ以来、チンギスハン陵墓は国内外から注目を集め大きな話題を呼んでいます。モンゴル族の間ではチンギスハン陵墓を彼らの聖地だとみなしています。現在の陵墓は実際、チンギスハンの衣冠を埋めた墓だと言われています。ここはモンゴル帝国を建国したチンギスハンのシンボルの余蘊になりました。そのために中国の重要文物とも指定されています。美しい草原と神秘的文化色彩に恵まれることにより、無敵と言われる帝王の陵墓の雄姿を物語っています。

 

   国の5A 級にもなっているチンギスハン陵墓は敷地面積が10平方キロメートルにも及び、観光や宿泊、食事、民俗、娯楽などを展開させている総合的な観光施設に成長してきました。

 

   チンギスハン陵墓を祭祀することはモンゴル民族にとって最も大切かつ厳かなイベントであり、略称で言うと「成陵祭り」と呼ばれます。毎年旧暦の3月17日チンギスハンの功績を慕うイベント大会を開きます。この祭祀の習俗は古くから伝えられてきました。学者の話によるとモンゴル族の習俗やシャーマン教の信仰から見れば先人への祭祀は肉体よりも亡霊をまつることを重んじていると言います。人が死に際に最後に吐き出す気息は近くにいる駱駝の毛に付着してしまうとされます。このようにチンギスハンの最後の呼吸が付いた駱駝の毛も陵墓の中に納められたと考えられます。

 

   チンギスハンは鉄木真とも呼ばれ、1162年にモンゴルの貴族の家庭に生まれました。かれが長年の戦争を通じてモンゴル高原にある部落を統一させ、1260年に正式に「大モンゴル帝国」の建国を宣言しました。「チンギスハン」と称せられ、崇められました。「大海のように偉い指導者」という意味です。西暦1227年に西夏の国を攻め落そうとした時に病死して享年65歳でした。ヨーロッパ諸国ではチンギスハンのことを「全人類の帝王」と崇めています。

 

   チンギスハン陵墓はメイン建物が主にモンゴル式の本堂及びこれに隣接する付属施設からなっています。建物全体が厳かな雰囲気を漂わせ、濃厚なモンゴル族の色彩を呈しています。本堂は黄金色に覆われた屋根が太陽の光に輝かいて見えます。ドームの尖りに青色の瑠璃瓦で装飾した「雲頭花」(雲模様の絵柄)が描かれ、これがモンゴル族の崇拝の図案と色であると言われます。本堂に入ると真ん中に高さ5Mのチンギスハンの彫刻像が安置されています。鎧を身に纏ったチンギスハンが腰に剣を付けて凛々しい表情を見せています。背後には「四大汗国」と呼ばれるチンギスハンが自らの手で征服した領土の地図は掛かっています。後ろの部屋にチンギスハンと三人の夫人の霊柩が安置されています。東側の部屋にはチンギスハンの息子であるトレーと奥さんの霊柩が置かれたのに対して西側の部屋には九人将軍を象徴する九枚の旗と鉄製の矛先が陳列されています。