桂林「棲霞禅寺」-中国西南部の名高いお寺

2012年06月29日中国観光ガイド

桂林の六合路から七星公園に入ると、すぐ左側に立派なお寺があります。そのお寺の名前は「霞千禅寺」と言います。
霞禅寺」は桂林地元の人が「霞寺」ともいい、桂林の七星公園の中にある普陀山の西麓にあり、唐代から建て始まりました。750年、鑑真和尚が弟子を率いて五回目海を渡って日本へ行くことが失敗して、桂林に来た時には霞寺」に訪れたことがあります。その後の「毀佛」の運動で壊されてしいました。元代には道士の唐大淳に「全真観」と建てられました。明代には再び「寿佛庵」に建てられました。清代の順治8年に湖南省から来た「渾融」和尚が33年かかって「寿佛庵」の基で霞寺」を造り立てました。当時の中国西南部かなり有名なお寺の一つになりました。残念ながら、194511月に起こった「桂林防衛戦」の中で、日本軍が七星岩を砲撃する時に霞寺」はやられて廃墟になりました。現在の霞寺」は月に落成され、相変わらず唐代の建築の風格を保っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

              「霞寺」は桂普陀山の西麓にあります。お寺の前の広場に「渾融」和尚の彫像が建てられています。昔「渾融」和尚のお墓も彫像のある場所にあったそうです。真ん中の建物は「天王寺」で、両側はそれぞれ鐘楼(右)と鼓楼(左)です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「天王殿」の前の両側に青々しい楡の木が二本植えられています。「天王殿」は有名な書道家「愛新格羅啓功」が書いたものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 高い階段を上がって、「天王殿」の門に来ました。お寺の正門は「山門」と言います。「天王殿」に入ってすぐ厳かな雰囲気が感じられました。仏殿の真ん中にいつもにこにこする弥勒が供えられています。弥勒佛の両側は威厳たる「四大天王」です。弥勒の後ろは韋駄天です。
 

 

 

 



 

 

 

 

 

 

「棲霞禅寺」の看板は元中国仏教協会会長、中国佛学院院長、書道家の趙朴初先生(1907-2000)が書いたものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「天王殿」の正門の両側にそれぞれ浄土門と般若門があります。
天王殿

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「天王殿」から更に奥の方へ行くと正殿また大殿という「大雄宝殿」が見えました。「大雄宝殿」はお釈迦様を祭る所です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「大雄宝殿」の両側に十六の羅漢が並んでいます。佛塔と大殿を回る時順周りに歩かなければならないことに決まっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
お寺の庭の両側に大きいガジュマルが一本ずつ植えられています。眞夏にも涼しく感じられました。お寺の中に人があまりいないので、静粛な雰囲気が溢れていました。線香の煙がゆらゆらと空に立ち上っていて、いたるところに線香のいい匂いが漂っていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


観音殿の中の観音像は四川省雅安産の漢白玉で作られました。高さは6.8メートルで、中国国内では一番大きい室内白玉観音像です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



人が観音殿に入って、仰向いて観音さんをみなければならないようにデザインして観音殿が建てられています。観音さんの左側に立っているのは「善財童子」で、観音さんの右側に立っているのは「龍女」です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここは「放生池」です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「財神殿」が「大雄宝殿」と同じ所に共存するのは「霞禅寺」の一つの特色と言えるのでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「正財神」は趙公明だと分っていましたが、「武財神」は関羽だとは知りませんでした。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鉄鐘の上からかすかに棲霞寺 光緒十八年歳次辰孟冬吉日」名護の字が読めます1945年月日軍の大砲に砲撃されて「棲霞寺」は廃墟になりました。この鉄鐘は当時から残されてきたものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この尼さんは普通の家庭主婦と同じように携帯用電話をかけながら、食材を乗せるリヤカーを引いて、近くの六合自由市場へ食材を買いに出かけました

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コメント(3)

作者:( 「ふれあい中国」)

お客様からのコメント

1桂林浪漫2012/07/04 19:24返信

立派な寺院が復興されたものですね。相当な資材と金が投入されたこと思います。破壊される前の寺院の風格はいかがなものであったろうか、気にせずにはおられません。何千年もの間、広西の行政の中心地であった桂林、無残ににも先の日中戦争で、名所古跡がことごとく破壊されました。桂林城内は、日本軍が攻め入る前に国民党により防御のために焦土と化されました。七星公園、解放橋をめぐる攻防戦は、多くの犠牲者がでて戦闘のすさまじさが記録されています。日本軍部の傲慢な大陸侵略は後世に大きな禍根を残しました。伏波山の「千人鍋」にも、痛々しい砲弾の跡が残っています。桂林に旅する日本人は、今は世界の観光地になっている風光明媚な桂林の土地を、古跡を、人民を、蹂躙しつくしたことを忘れてはいけません。解放橋の下を流れる漓江の渡河作戦で両軍の兵士、将が倒れて逝ったかを思ひ致し、2度とこのような過ちを起こさないような日中の相互理解、信頼を築いていくべきであると信じてなりません。是非読んでもらいたい本があります。ご紹介しておきます。『戦時桂林損失調査研究報告』(社会科学文献出版社)2009年7月出版。中文。『B29基地を占領せよ』光人社NF文庫、佐々木春隆著。桂林に何度も旅してみたり、留学滞在していても、この寺の存在を知りえませんでした。下次訪問の際、花と線香を携えてお参りいたしたい。

2野良猫2012/06/29 23:12返信

日本軍が歴史ある桂林の文化財を破壊し、消滅させてしまったことに心が痛みます。多くの日本人は、唐招提寺を建立した鑑真和尚のことを知っています。しかし、五回目の渡航に失敗し、桂林に一時期滞在していたことは、あまり知られていません。私も陽朔を訪れた折に、地元の人から聞いて初めて知りました。鑑真和尚が、苦難の末に日本にもたらしたものを考えると、よけいに心が痛みます。戦後生まれの私たちがするべきことは、現在の友好的な関係を育み、次代に引き継いでゆくことだと思っています。よりよい明日のために、現在の関係を大切にしたいです。

  • 2012/07/02 18:53

    「野良猫」さん、いつもコメントいただき、ありがとうございました。コメントのご返信が遅くなって、申しわけございませんでした。私は日本の京都と奈良など歴史の長い町へ行ったことがあります。東大寺と唐招提寺などのお寺はとても立派な建物で、同じ時代にある中国のお寺より完璧に残されたことが深いイメージでした。もし東大寺と唐招提寺は破壊されたら、日本人だけだはなく中国人にとっても心の痛むことでしょう。中国と日本とは歴史の淵源の長い国なので、「棲霞禅寺」の壊滅は中国の損害だけでなく、日本にとっても損害だと思います。人類の文化遺産の悲劇だと思います。中国の日本の間、永遠に戦争がなく、世世代代友好な隣邦であるように心から祈祷します。

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