豪華な地下軍事博物館と誇る西安の兵馬俑坑

2013年06月24日中国文化

 1974年3月、西安市の郊外にある秦の始皇帝の陵墓から東に1、5キロほど離れた西楊村で何人かの住民が井戸を掘ったところ、全世界を驚かすほどの大発見がありました。それは2000年余りの間、地下に眠った黄泉の国に行った始皇帝の近衛軍とされた兵馬を模った「兵馬俑」の発見でした。兵馬俑というのは兵士や馬の形をした埴輪のことであり、すなわち始皇帝が来世へと旅立っていこうとして自分を守ってくれる巨大な兵隊などを埴輪にした副葬品のことです。発見された翌年、国が現場で兵馬俑坑博物館を建てて、そして1979年10月1日、正式に一号坑として一般公開されることになりました。そのあと、引き続き二号坑と三号坑も発掘されていますが、最も規模の大きいとされたのが一号坑の兵馬俑群です。一号坑の規模と言えば東西230M、南北62M、面積が延べ14260平方メートル、深さ5Mそれぞれ及びます。そこから、本物の兵士、馬、馬車などと同じ大きさの埴輪は7000点以上発掘され、規模においても数においても世界最大のものと評判されます。発掘された時、いずれ色が付いていましたが、残念なことに酸化されて間もなく褪せてしまいました。                                                                                                                                                          
 記載によると、紀元前246年、13歳になった始皇帝が王位に即位したということです。それから彼が前後38年間にわたり、あわせて70万の労役を自分の陵墓の建造に費やしたと言われています。司馬遷の『史記』の中でも陵墓のことを「百の海、川を造り、機械で絶えず水銀が流れるようにした。上は太陽、月のような天体を造り、下は山や川のなどの地形を整えた」と書いてあります。これほどの規模に匹敵出来る兵馬俑坑は言葉では贅沢かつ豪華といったらないです。今まで出土された埴輪は「兵士」といい「馬」といい相当の技術が問われたことが分かりました。例えば出土された等身大の「兵士」にどれ一つとして同じ顔をしたものがないばかりではなく、兵士らしい凛々しい表情や姿もよく工夫されていました。それに全国の統一がすでに達成した始皇帝の時代に各地区や各民族から兵士が徴兵されたらしく、これを十分埴輪の人物の表情や造形にも反映したと考えられています。もう一つはなぜ埴輪の兵士や馬などが一律にして東を向いているのでしょうか。その原因を説明できる定説がないようです。
 これほど贅沢な副葬品を造らせた無敵と言える秦はただ15年間だけ続いたことはなんと皮肉なことでしょう。「奢る物久しからず」と言いますが、あの全てを武力に訴えるとされた始皇帝の国策にはどこか間違いがあったじゃないですか。
いずれにせよ、兵馬俑坑はもう中国屈指の人気観光地となり、1978年にユネスコの文化遺産にも登録されています。毎年千万単位の観光客が詰めかけてくることは始皇帝にはとうてい知る由もなかったことでしょう。

兵馬俑の埴輪は出土されたばかりの時、豊富な色が付いており、酸化されると間もなく色褪せしてしまいます

貴重な銅馬車も発掘され、2000余年前の技術にしてはかなり進んでいると言えます

なぜすべての「兵士」と「馬」は東側を向いているでしょうか。

結構分厚い鎧を身に着けていますね。その時、ちょうど冬だったじゃないですか。

「兵士」の表情がいち一々違います。相当きめ細かい技術が問われました

一号坑の発掘現場をそのまも観光のコースにしました

兵馬俑坑博物館の正面玄関であり、何の変哲もないですね。


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作者:( 「ふれあい中国」)

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