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2014年06月26日桂林の石頭城

  2014年5月1日、筆者が休みを利用し、またもや家族や友達とともに石頭城を訪れました。石頭城は桂林から39キロほど離れた葡萄鎮に属し、葡萄鎮から更に細い山道を車で10キロほど行けば着きます。城の地名は梅嶺間と呼ばれる村なのです。実際、筆者が11年前に一度行ったことがあり、その時、葡萄鎮からの山道がまだ舗装していなく砂利の道だけでした。10キロの道でしたが、約1時間以上もかかったという記憶です。
   敷地面積10キロ平方メートルに及ぶ石頭城は海抜やく400メートルの山の上に隠れ、周囲はすべて石の壁に囲まれ、中の民家もほとんど石造りなので、石頭城と地元で呼んでいます。更に石頭城は高い石灰岩の山に囲まれたことから、長い間ずっと内緒されたようでした。この秘境とも言われるこの石頭城の城門まで上がるには相当の階段を上る必要があります。もともと東西南北の四つの城門があるほかに、最初24の小さい門もあったということですが、現在18の門が残っています。遺跡として発令台や兵営などがあり、民家はすべて石造りのもので、全部まわるには2時間ほどかかるそうです。石頭城はいつ築かれたものですか。ずっと謎のようなものであり、はっきりした答えがまだないです。人によって明の時代に造ったという人もいれば、清の時に造ったものだと答えてくれた人もいます。そして何のために造ったのでしょうか。やはりいろいろな答えがあります。筆者が地元の年輩の方にもいろいろと尋ねましたが、返事がほとんど曖昧模糊でした。なぜかというと、石頭城についての文字、石碑や関係資料などが一切ないからです。ただ村人の一人の手に「南門分局」という文字の印鑑だけが保存されているだけです。
 ところが、筆者にとって忘れられないことがありました。それは11年前に来た時、石頭城の山の麓にある一軒の民家で昼食をしたところ、一人の年輩の方からこんな話を聞かしてくれました。「あの石頭城は石達開のつわものが築いたものよ」とさり気ない表情で言ってくれたことです。この話に対して「本当ですか?」と筆者が半信半疑でした。
 石達開はどんな人物だったでしょうか。彼は実際1851年に勃発した清の王朝に対抗した太平天国農民蜂起の一人の指導者で優れた手柄により翼王の座に抜擢されました。1856年に起きた太平天国指導者同士の殺戮を切っ掛けに、攻勢が不利に転じたばかりではなく、翼王の石達開も天王の洪秀権から何の痛くもない腹を探られ、所属の部隊を率いて遠征(分裂の意図があるとも言われました)の道に歩みました。この部隊は都の天京(今の南京市)から清の政府軍と対抗しながら撤退しました。二転三転して自分の故郷の広西省にもたどり着きました。その時その一部の部隊が翼王に従っていくのを止めてこの山奥に引きこもっていました。そこで清軍の攻めを防ごうと、まず東西南北の城門を造りました。そして彼らのことを世間にばれないように文字などを一切刻まないようにお互いに堅く約束したという話でした。           
 
筆者は村人のこの話がどれほどの信憑性があるのかはいいとして実在のことであってほしいと願っていました。なぜかというとその後の翼王の部隊がとうとう四川省の大渡河で清軍に全滅されてしまい、さすがの翼王も悲惨にも「凌遅」(人体をバラバラにする刑罰)の刑に会わされていました。もしこの話が本当ならば、村の人々はあの部隊の子孫に違いないでしょうとも思いました。そして誰もが先祖のことを絶対よその人に話さないように固く約束されていたでしょう。筆者は文字も石碑もほとんど残っていないこの石頭城の謎が少し理解できたような気がしました。

石頭城に行く途中、遠く振り返ってみる葡萄鎮の遠景



石頭城の山の麓に建てられた寺院でほぼ崩れてしまい、営造年代もはっきりしていないということです


この寺院から石頭城の城門まで階段が敷かれており、合わせて500段の階段がありました。城門まで登るには結構骨が折れました

城門の辺りに登ると遠くにある葡萄鎮が微かに見えました




周囲の植物の中に深々と隠れた西の城門がやっと目の前に現れました





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作者: 「ふれあい中国」
 

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