桂林の「曲水流觴」と王正功

2014年09月30日中国文化

2000年11月、桂林の歩行者天国である正陽路の拡張工事をした際、思いにもよらないことがありました。宋代(960年~1279年)の物とみられた文物が出土されました。その文物の名前は「曲水流觴(しょう)」と言います。觴(しょう)とは古代の中国でお酒を盛る盃(さかずき)のことです。このことはもともと古代人の厄払いの行事として行われました。記載によると旧暦の三月三日になると、人々は曲がりくねった川の両側に座り、その川の水面にお酒の入った盃を浮かべます。その盃がもし誰かの前に止まると、その人がこのお酒を飲まなければならないと約束しました。東晋(317年~420年)に活躍した「行書の第一人者」と呼ばれた王羲之が西暦365年にこのお酒を飲む‘刑罰’にさらに新しい内容を取り入れました。彼がその日、42人の友人を誘い、蘭亭というところで例年のようにこの「曲水流觴」の行事を行ったと伝えています。彼らはお酒の入った盃をまず上流の方から浮かべながら流れるようにしました。その盃がもし誰かの前に止まるとその人がお酒を飲むばかりでなく漢詩を作ることも要求されました。歴史によるとこのゲームで16人が2首ずつの詩を作り、15人が1首ずつ作ったということです。後の16人は詩作が作れないことでお酒を飲まされました。最後に王羲之は全員の詩作をまとめて一冊の本にした後、序文として書道界を風靡した「蘭亭集序」を揮毫しました。

桂林は中国の24の歴史の文化名城の一つに輝き、今まで歴代にわたる無数の文物が出土され、文人墨客も多く集まりました。宋代の桂林は北宋時代の広南西路の桂州に属し、「帥府」と呼ばれましたが、南宋時代になると静江府に昇格されました。この300余年の間、北方から数多くの役人や学者が桂林に押し寄せ、地域の発展に尽力したばかりでなく、桂林の山水にも魅せられました。長い歴史の中で「曲水流觴」というゲームを通じてどれほどの詩作を作ってくれたか分かりません。彼らは「蘭亭集序」ほど素晴らしい作品を残していないですが、「桂林山水甲天下」と言ったような言葉で高らかに桂林の美を読みあげた人が輩出したことは間違いありません。その功労者の第一人者はおそらく南宋の王正功ではないでしょうか。もしあなたは桂林を訪れた時、宋代の風流の趣が残る正陽路の南端にある「曲水流觴」とその近くにある王正功の立像を拝見すればいかがですか?

桂林の正陽路に南端にある「曲水流觴」は大事に保護され、静かに昔の学者の風流を語っているようです。

宋代の桂林は石に溝を彫り、その溝に水を入れます。水面に盃を浮かべて流れるようにします。その盃がもし誰かの前に止まるとそのお酒を飲んだり詩作を作ったりすることは一般的でした。

ここからまっすぐ北側に進むと666メートル続く正陽路になり、桂林で有名な歩行者の天国と呼ばれています。

「曲水流觴」の近くに「桂林山水甲天下」と高らかに読みあげた南宋の詩人、王正功の立像です。この言葉は桂林を知るキャッチフレーズになり、誰一人として知らない人はいないでしょう。

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作者:(董文利 「ふれあい中国」)

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