ラプチェック(拉甫却克)古城

ラプチェック(拉甫却克)古城はハミ市の東65㎞に位置する四堡村にあり、後漢時代の宜禾都尉の屯田城跡と唐の時代の納職県の城跡として1957年に新疆ウィグル自治区の重要文化財に指定されました。

ラプチェック古城の遺構
ラプチェック古城の規模は南北500m、東西300mで白楊河を挟んで南城と北城に分かれ、全体が漢字の「呂」の字形を呈していています。北城の城壁は下部を土を突き固めた版築工法で、上部は干し煉瓦で構築され、西端に角楼が立ち「馬面」という張出部の遺構が残されています。南城の構造は特徴的で、二重に築かれた構造の外部は版築で内部は干し煉瓦で建造されています。城壁は各時代の王朝により増築、補強を繰り返し造られたものと考えられています。

城内には洞窟住居跡が残っており、洞窟の壁には壁画が描かれています。大量の來砂紅陶や灰陶の陶片が散在しており、罐と瓮の形状や刻線紋様と附加堆紋が施されている等の特徴からジムサル(吉木薩爾)県の北庭故城から出土しているものと類似しているといわれています。
古城から北方へ向かうと烽火台や仏寺の遺跡が何か所も点在し、白楊河のほとりに沿って2、30㎞先まで続いています。

後漢宜禾都尉の屯田城跡
『後漢書?西域伝』に記されている記録によると、後漢時代の長平15年(西暦72年)に明帝の勅命により竇固が匈奴討伐軍を率いて西域へ向かい、73年に当時「伊吾盧」と称されたハミで匈奴を破りハミの支配権を取り戻します。そして、現在の四堡に宜禾都尉を置いて屯田を行ったといわれています。日本にもある諺「虎穴に入らずんば虎子を得ず」の元となる言葉を発したとされる班超は、この時の竇固の討伐軍に従軍して軍功をあげ、同年に西域都護の任を受けて31年に及ぶ長い間、西域管轄に従事し西域諸国の大半を後漢の支配下に治めました。史書資料と古城の遺構からこのラプチェック古城は後漢時代の屯田城跡と考えられています。

楼蘭人と納職城
「ラプ(拉甫)」はロプノールの転音で、「チェック(却克)」は古突厥語で「居住地」を示し、「ラプチェック」とは「ロプノール人((楼蘭人)が住んでいる城」という意味を表しています。
ロプノール人(楼蘭人)は西域南路を支配し鄯善国(ぜんぜんこく)を建国して、1世紀末頃から全盛期を迎えましたが5世紀以降はタリム盆地の乾燥化と次々と起こる異民族の侵入を受けて衰退し、5世紀に北魏によって滅ぼされました。

『南斉書?茹茹伝言』によると、北魏時代の太和17年(493年)に高車人の攻撃を受け、鄯善国人は東のクルムへ逃れ、クルムから南西65㎞離れた土地に移住して自らを「納職」と称して納職城を築きました。それが現在のラプチェック古城となっているのです。そして、納職人はロプノール周辺で生活していた楼蘭王国の末裔といわれています。

唐代の納職県の県城跡
唐王朝は西域を征服した後、西域を管轄するためにハミに伊州都督府を置き その下に「伊吾」「納職」「柔遠」の3県を設けました。史書の記録やラプチェック古城に残された建築遺跡と出土品から考察するとこの地の遺跡は北庭故城と類似する点が多く、唐王朝の特徴を持つものが多いことから、現在のラプチェック古城は唐の時代の納職県の城跡とも考えられています。