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2012年11月19日秦、漢時代の嶺南文明を語ってくれる西漢南越王墓博物館

 

 1983年6月に、広州市越秀区解放北路に位置する象岡山の工事現場で、世間を驚かすほどの大発見が起きました。それは2100年ほど前の国王の古墳の大発見なのでした。この国の名前が南越国と呼ばれ、古墳に埋めた国王の名前が趙眜(チャオモウ)と呼ばれました。国の都が「番禺」と呼ばれ、つまり、今の広州市に当たりました。趙眜(チャオモウ)は南越国の二代目の国王であり、初代の国王の趙佗の孫でした。記載によると祖父の趙佗が百歳ほど長生きし、息子の方が先に死んだということから、国王の座が自然に孫の趙眜に引き継がせまたということでした。それでは趙佗はいったいどんな人物だったでしょうか?
 実は趙佗は秦の始皇帝に仕えた将軍でした(趙佗の墓が広州辺りでまだ見つかっていません)。紀元前219年、趙佗が秦の始皇帝の命令を受けて全国統一を目指して強い軍事力で嶺南地区を侵攻しました。間もなく征服された嶺南地方で秦の施行した郡県制度のもとで、南海郡、桂林郡、象郡という三つの郡を設けました。趙佗はその南海郡の郡尉(最高長官)に務めると任命されました。ところが軍事的に強大な秦が間もなく農民蜂起によって崩れてしまい、結局滅びた運命が免れられなかったのでした。秦が滅びた後、中原あたりで統一を巡る楚漢戦争が勃発し、4年にわたるこの戦争に巻き込まれた中原が疲弊になり、文化や生産力などが破壊されました。そればかりでなく人民もこの戦争にだいぶ苦しめられたありさまでした。これを察知した南海郡尉の趙佗は紀元前203年に、勢力下の南海郡に桂林郡、象郡を合わせて独立を宣告し南越国の政権を発足させました。一方、北方の中原では劉邦が紀元前202年に西漢を建国させましたが、先に嶺南に独立した南越国を潰すことを考えなかったのでした。ただ「正統性」のない南越国が「正統性」のある西漢にその後、二回にわたり、西漢の「外臣」として朝貢するすることが余儀なくされました。安定した背景に西漢との貿易が盛んになり、鉄などのほか、中原から大量に訪れた移民が優れた生産技術やノウハウを持ってきたので、南越国の文明促進と発展に大きく貢献しました。このようにして西漢と南越国の間に約100年間、戦乱などのいざござがなく、お互いに社会のあらゆる面での発展と繁栄をもたらすことが出来ました。この中で北方の西漢では人民を安定させた「文帝、景帝の治」が現れたのに対し、南方の南越国で社会のあらゆる方面において発展と進歩を遂げることが出来たと言えます。
 これらはすべて南越国国王の古墳から発掘された数々の文物で立証することができます。更に発掘された遺物を分析すれば周りの東南アジア地方とまで貿易をしたことも指摘されました。
 いうまでもなく、趙建徳が五代目の国王になった時、南越国は西漢との間、長年の小康状態が破れ攻防戦が始まり、紀元前111年、漢の武帝の征服と南越国の内部による内輪もめのため、93年間にわたる南越国の歴史に幕を閉じ、歴史舞台からその華やかな姿が消えてしまったのでした。
 中國の歴史からほぼ完全に潰えた、かつて立派な文明を残した南越国が思いがけない古墳の発掘によってふたたび世間に知られ、考古学者や関係者などを驚嘆させられました。古墳から国王の趙眜(チャオモウ)のほかに、15人の殉葬者、及び1000点以上の副葬品が出土されました。これらの副葬品には主に貴重な鉄器、玉石の器、青銅器などが数えられ、いずれも計り知れない価値がありますが、最も値打ちのあるのは国王の趙眜の着た「糸鏤玉衣」(玉片を糸で鏤めた魔除けができるとされた、普通身分の高い貴族が死んだとき、着て墓に埋める衣のこと)、「文帝行璽」という趙眜の権力を象徴する金印なのです。南越王古墳が今まで嶺南地方で出土された漢族系の墓にしては最も副葬品の多く、規模の最も大きい墓だと評判されています。2100年前の秦、漢の嶺南地区における文明開化、社会発展、民族間の交流、貿易などを知る上で、掛け替えのない資料となります。そのために中國近代5大発掘の一つと位置づけられ、国内外から高い関心が寄せられました。発掘されたあと、南越国の見失われた文明を大事に保存し、後世の人々に知ってもらうようにするため、その場所で南越王博物館を造ることになりました。
 博物館は古墳遺跡発掘の区域、展示室からなっており、敷地面積が1.4万平方メートルに達しています。今広州市の重要文化財と有名な観光地に指定されています。

    大変ラフなブログで、夥しい量の出土品やその時代の奥深い話をとてももとめることができないですので、かしからずお許しいただきたいです。少しずつ皆さんのあの時代に対する理解の手解きになればと幸いです。

 


赤色砂岩で築かれた博物館の玄関ですが、古墳を築いた石もこれとまったく同じ石材のようです。

国王の趙眜の等身大に復元された「糸鏤玉衣」で、出土された文物の中で一番注目を集めるものとされています。

2100年前に使われた魚網に付いた重りまで完璧に保存されております

南越国の建国当初に支配した領域で、ベトナム北部まで含まれていました。地名に初めて「桂林」という名前が出ました。

ガラス張りの下に発掘された古墳の遺跡が保管されています。この地面から下に20Mの地下に古墳を造りました。

狭い階段を降りて古墳の中に行きます。

古墳の中に入ると国王の主棺室の左右に「廂」が排列されていました。
国王の二人の妻が殉葬した部屋とされていました。



西漢では人間を殉葬させた墓は禁止されたようですが、南越王の墓は例外であり、考古によると、殉葬した人が皆、頭蓋骨に打たれた跡があるということです。
少し野蛮の匂いがするではないですか。 
殉葬した羊、牛の残骨

殉葬した左婦人(妻)の残骨

ガラスの箱に古墳の裏からドアをしっかり閉めるための石の楔が納められています。盗掘がないような取り組みとして素晴らしい考えでした。


上から見下ろすと古墳が凸字型に形作っています。下まで20Mの距離があります。

やはり赤色砂岩で出来た博物館に、嶺南文化の息吹きが感じさせてくれるようです。



玉の器が大量に出土されました。

2100年ほど前の戦争に使ったとされた鎧がすっかり錆びてしまいました。

やはり昔の戦争に使われた鉄製の槍、剣などの武器も発掘されました。

昔、美容に使われた青銅器の鏡で、後ろから支えた脚がありました。

王室の装飾に結構きめ細かい止め金具が造られたらしく、昔の人も美意識にも拘りましたね。





暖を取るストーブでこれを使うと南方の寒い冬が凌げるそうです

中國はさすがに漢方の国であり、2100年前から漢方薬がよく飲まれました。これがおそらく国王に一番効く漢方かもしれませんね。



鉄で使った鍋が鼎のような形をしていますが、当時の日常生活には欠かせないものでした。

2100年前のバーベキューに使った用具でした。南越国はこの点でバーベキューの祖だったかもしれませんね。





これらの道具に使われた鉄はほとんど中原の西漢から貿易の形で輸入してきたものであり、当時の南越国の生産力の向上に大いに役に立ったと分析されています。

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作者: 「ふれあい中国」
 

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