青島の文化


青島は山と海に恵まれ、気候は穏やかです。美しい海岸風景などで港湾都市として名を馳せます。4000年前の三里河文化から春秋戦国時代のろうや、即墨文化に至るまで、中国の歴史において高い地位を占めています。特に漢の時代に、ろうやは中国唯一の港湾都市として、政治、経済、文化、航海などで重要な地位となっています。青島と即墨は中国の東部沿海都市として、文化や海外の交通に大きな影響を与えました。現在、その文化遺跡は完全に保存され、貴重な文物と観光資源になっています。唐宋の時代、膠州湾は重要な港湾となり、著名な密州市舶司は膠州湾内の板橋鎮に設置され、中国の北方で唯一の対外開放港であり、中国と日本、新羅との交流の主要な口岸です。

 青島の膠州湾地区は悠久の歴史と輝かしい文化を持っています。ろうや台、即墨古城、三里河、斉長城、天柱山魏碑、嶺山道観など古代建築はよく保存されています。青島市内には道教名山のロウ山があり、道教信奉者の聖地で、道教の雰囲気が濃厚です。斉国と魯国は春秋戦国時代の中原文化の最も濃厚な地域で、青島は斉魯文化の発祥地である山東に位置するため、その影響も大きいのです。海に面した斉国では姜太公をはじめとする道家思想の学説が生まれ、東夷文化を取り入れて発展しました。春秋時代の魯国では孔子をはじめとする儒家思想の学説が生まれました。2つの文化には違いがあり、斉文化は功利を重んじるが、魯文化は倫理を重んじます。斉文化は革新を求めるが、魯文化は伝統を尊重します。二つの文化は発展の中で融合して、豊富な歴史の内包を持つ斉魯文化を形成しました。そのため、ここは人材が豊富で、経済、文化などの面で重要な地位を占めています。  

  青島はドイツと日本に植民地化されたことがあるが、そのような過去のおかげで、ヨーロッパとアジアが融合した特別な文化も築いてきました。その代表として青島の建築です。初期の建物は天後宮といくつかの村を除いて、大きな建物は清の政府が青島に守備隊を置く期間中に建設した総兵衙門、埠頭、砲台、兵舎、火薬庫などあり、軍事施設と港湾を構成しました。ドイツは青島を占領した後、青島の都市機能を軍事基地、港湾、商業貿易の中心都市として計画しました。今でも青島には多くのドイツ式建築が残り、有名な青島下水道もその頃に造られたものです。その後青島は日本に植民地化され、ここにまた多くの日本式の建築物が出現しました。各歴史時期の都市建設の特徴のため、青島の発展は中国文化を伴いながら、また海外の異なる文化が融合して現れた多彩な文化が見え、「西洋」の味とする都市建築の多元化の特色を構成しました。長い間、青島は中国で最もヨーロッパ化の都市として有名であり、このようなヨーロッパ化は今でも十分な魅力を持っています。