太原の歴史

太原市は三方面を山に囲まれ、2400年の歴史を持つ古都です。殷、周時代以来、太原地区はずっと中国北方で重要な軍事、政治、経済、文化の中心でした。太原郡、代国、併州、太原国、龍山、太原府、北都、北京、西京、龍城、太原路、冀寧路、陽曲などの旧名があります。太原は歴史上に九朝の古都と言われ、周の時代から2000年余りの間、多くの古建築を建てられました。現存するのは晋祠園林、永祚寺、凌霄双塔、龍山石窟、蒙山大仏、祭孔文廟、晋陽古城遺跡、天竜山石窟などがあります。

中国では、帝王はしばしば竜と関係があります。歴史上、多くの中国帝はこの都市と密接な関係があったため、竜城とも呼ばれました。最初は春秋戦国時代、趙簡子趙襄子が太原を拠点に戦国七雄の一つだった趙国を建国しました。漢の文帝劉恒は皇帝になる前に代国の王を封じられ、首都は太原でした。太原郡に封じられた晋王司馬氏の一族が曹魏に代わって政権を樹立した後、国号を「晋」としました。隋唐の両王朝で、煬帝の楊広が即位する前も晋王を封じられました。李淵とその子李世民は、晋陽から長安に進攻し、隋の政権を奪って唐王朝を建てました。唐の高宗は皇帝になる前に晋王を封じられ、同じ併州出身の皇后武則天は、中国で唯一の女性皇帝となりました。宋の太宗は皇帝になる前に晋王に封じます。

太原はまた中原の漢民族と草原民族の交流や衝突の中心地帯でした。商周から宋清に至るまで、匈奴、鮮卑、羌、突厥、女真、契丹、モンゴル、満族などの民族が漢民族と激しい衝突と戦争を行いました。このような歴史的環境下で、模倣したり、或いは外敵を防いだりして、この土地の人々は果敢な民風を形成し、武を重んじる風習が盛んでした。